登れない課題の前で、人は何と向き合っているのか
プレスファクトリーには、今日もいろんな人がやってくる。
学生、会社員、旅人、哲学者みたいな顔をした無口な人。
年齢も経験も、持っているものもバラバラなのに
なぜかみんな、同じように壁を見つめている。
登れない壁を前に、人は等しくなる。
課題のグレードは人によって違う。
でも、その本質は同じ。
「登れない」という現実をどう受け止めるか。
「登る」という行為の中に、自分の何を持ち込むのか。
誰かのV10も、自分のV2も
突きつけられる問いは――「どう登る?」
シンプルさの中に、深い沈黙がある
スタートに手をかけて、トップを取る。
ただそれだけ。ルールは極端に少ない。
なのに、そこに人生の縮図のようなものを感じてしまうのはなぜだろう。
登れるか、登れないか。
やるか、諦めるか。
進むか、見送るか。
その一手一手が、問いになる。
課題とは、外側にある壁ではなく、自分の内側にあるものだ。
登れないことが苦しいのではない。
登れない自分をどう扱うかが、問われている。
誰かと比べるでもない、見せつけるでもない。
ただ、登れない自分に誠実であれるか。
それが、この場所の“魅力”だと思う。
境界のない空間で、静かに整っていく
人が集まる理由は、「登れるから」ではない。
登れなくても、許される空間だから。
成果の有無ではなく、向き合ったかどうか。
それだけが、じんわりと空気に沁みていく。
クライミングジムは、
“それぞれが黙って向き合う不思議な場所”なのかもしれない。
結論:壁を登るって、静かに自分とケンカすることかもしれない。
✔️ 隣の人じゃなくて、自分の“できなさ”と対話する時間
✔️ 登れないって、なんか悔しいけど、ちょっと人間っぽくて嫌いじゃない
✔️ ルールはシンプルなのに、頭の中はぐちゃぐちゃ(たぶんそれがいい)
✔️ 気づけば全員、無言で壁に話しかけてる(※たまに口に出す人もいる)
正直、クライミングは沼。
でもその沼、ちゃんと深くて意味あるタイプのやつです。
今日も壁の前で考える。
「これ…どうすんの?」「いや、無理じゃね?」「でもいけるかも…?」
3手目で落ちて、マットに寝転んで空を見上げる。
問いは深まる。体は重くなる。
登るとは何か。
登れないとは何か。
そして……なんで昨日より下手になってるのか。
たぶん、チョークのせい。
たぶん、湿気のせい。
たぶん、知らん。
でも結局、また登る。
だってなんだかんだ、
それが一番おもしろい